ニーチャンノート

まだまだ工事中 立原道造とか考察とか妄想とか

立原道造のアイデンティティ 堀辰雄との親密性の問題について

 別件で大学に出したものをすこし改変しました。

 立原道造のこととか、アイデンティティとか大体わかってるよ。という人は下記リンクから「第四節 アイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題」まで飛んでください。その節が本番なので……
 第三、五~七節はおまけ?みたいなものです、たのしく書きましたのでお暇でしたら読んでください。おまけでもないかな……

第一節 立原道造って?

 立原道造は1914年7月30日生まれ、第一高等学校在学中に堀辰雄に師事し、詩作を学びました。一高卒業後は東京帝国大学工学部建築学科に進み、建築家としても知られています。代表作は『萱草わすれぐさに寄す』『暁と夕の詩』。音楽性の高い詩で、合唱曲として今でも歌われることが多いです。合唱部が強い学校だった人とかは聞いたことあるんじゃないのかなあ……

 しかし1937年10月、立原23歳の頃に結核菌が原因とされる肋膜炎を発症しました。一時は回復しましたが不調が続き、翌年の夏に医師には肺尖カタル(肺結核の初期)と診断されました。その年の12月に旅先の長崎で激しく喀血、下旬に帰京後江古田の療養所に入院。その頃には咽頭から腸まで結核菌に冒されていて、翌年1939年3月29日に24歳8ヶ月の若さで亡くなりました。

 立原は第一次世界大戦が勃発した年に生まれ、背後には常に戦争の色が強くありましたが、立原の詩にはその色は見られません。そして第二次世界大戦が始まる半年前に急逝しました。友達の杉浦明平は「彼はいいときに育ちいいときに死んだ。彼の最後の半年くらい奇妙な政治的見解を口にするようになっていたから、もし生きていたら彼の生に大きな汚点を残したかもしれない。神々は彼をその恥辱から救ったのである」(杉浦,1948,p.340)と言っています。そんな青年期の半ばにこの世を去った立原のアイデンティティについて述べていきます。

 

第二節 立原とアイデンティティ

 アイデンティティとは、エリクソンの人格発達理論における青年期の心理社会的危機を示す用語です。ちょっとややこしいんですがエリクソンという人が考えた発達段階のなかの青年期に起こる自分対社会(外界、他者など)の様々な葛藤などのことだとなんとなく認識していれば大丈夫だと思います。自我同一性ともいい、「昨日の自分も今日の自分も変わらない」「自分は一貫して自分のままだ」というものも含まれます。

 青年期とは中学から大学くらいまでの長い時期のことを示します。また、児美川はアイデンティティにかかわる重要な含意として「自分自身が『私はずっと私であるし、これからもそうである』『私はずっとこういう人間である』と感じるような意識の作用」と述べています。(児美川,2006 p.2)

 立原は、アイデンティティの確立の時期を永遠にしてしまった人だと私は考えています。それは青年期の真っ只中に急逝したからという理由もありますが、その確立のために重要になってくる『「自分は何者か」「自分の目指す道とは何か」「自分の人生の目標とは何か」「自分の存在意義とは何か」など、自分を社会の中に位置付ける問いかけに対して肯定的かつ確信的に回答できること』という要素にも理由づけられます。

 初めに述べたように、立原は22歳で結核を発症しました。明治以降の産業革命による都市部への人口集中で「国民病」といわれていた結核は、1944年にストレプトマイシンという抗生物質が開発されるまで有効な治療法はなく、(岡田,2006,p.165)彼が生きていた当時の治療法とは、栄養を取って安静にすること、空気の綺麗なところへ転地療養することが最善でした。サナトリウムですね 

 現代日本の青年でも自分の未来への問いかけの答えは難しいものであるのに、不治の病といわれる病気にかかって、自分の未来に対して肯定的かつ確信的に回答する、ということは困難なものではないだろうかと思います。実際彼が亡くなる3ヶ月前の南方への旅の日記「長崎ノート」にはこのようなことが記されています。

『夕ぐれ、汽車のなか、窓に月がかかっている。(中略)いろいろな人が家へ帰ったりする時刻だった──僕にはそれはうらやましく、さびしかった。あの人たちには生活がある、しかし僕にはない。』(立原,1938,p.318)

『観念的な夢想と、希望とが、自分の肉体の限界で破れてしまってこのかた、僕は光を失っている。』(立原,1938,p.351)

 ですが「長崎ノート」は帰京後の記録も書かれていて、『僕はおとなしくして早く健康になろう。それよりほかには何もない。(中略)ただまなざしを出来るだけ明るい未来に向ける。』(立原,1938,p.368)という明るめの言葉で締め括られており、否定と肯定との両極で揺れる青年期らしい感情が読み取れます。

 

第三節 堀辰雄という人

 ここで立原の先生、堀辰雄についてすこし触れます。堀は立原と同じ下町出身で、三中、一高、東京帝大に進学と育ってきた環境も似ています。ふたりが実際に面識を得たのは堀が27歳、立原が18歳の頃で、堀に出会うまでは短歌が主だった立原が詩に転向したのはこの出会いからでした。

 立原は「堀辰雄詩集」という手製の詩集をつくるほどに堀に傾倒しており、立原の詩の温床でもある軽井沢を教えたのも堀辰雄でした。堀と初めて会った1931年から2人の交流は濃くなり、室生犀星に『堀君が兄貴で立原君が弟のように思えて二人を引き外らして考えることが困難なくらいであった。』(室生,1939,p.61)と言われるほどの仲でした。師弟でもあり兄弟でもあり文学的な「親と子」のような関係で、立原はあたたかく優しい堀文学の中で詩を育てていきました。

 しかし、1938年の秋、盛岡へ旅立っていた立原は堀に対して巻紙推定8メートルにも及ぶ “堀文学に対する別離” の手紙を送ります。すでに昭和13年4月には「風立ちぬ論」という評論のなかで激しい決別の情を綴り始めているので、立原の中で突然おこったものではないとみられます。

 この決別は立原の「恋人ととおく離れてそれに身を震わせつつ耐える愛」というものが、堀の「風立ちぬ」の中の「静かに寄り添って生まれる愛」を許せなかったということでも考えられますが、ここではアイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題において彼の決別を考えます。やっと本題です!!

 

第四節 アイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題

 エリクソンの漸性発達図式では青年期に次ぐ成人期初期の心理社会的危機として「親密性 対 孤立」が挙げられています。

 他人と本物の親密な関係を結ぶことは、しっかりとした自己確立の結果であり、また試練でもあります。その自己確立の感覚が十分でない段階での友情・競争・性的関係は『際限のないおしゃべり、自分がどう感じるか、他人がどのようにみえるかを告白したり計画や願望や期待を話し合うことによって、自分自身のアイデンティティの定義を得ようとする試みに専念するような関係』(谷・宮下,2004,pp.60-61)というもので、他人からの評価を受けて自分のアイデンティティを確立させていくという関係です。

 ですが、そのような関係は自身のアイデンティティの喪失につながる対人的融合への不安を引き起こす原因にもなるのです。

 この「対人的融合への不安」は立原の「堀文学への決別」と重なります立原は堀を通じて詩人としての自分を作っていきました。「親と子」ではなく「個と個」になるため、堀世界から脱却して今までの自分を否定し、自らの文学を作っていこうとする激しい感情が堀宛の手紙にみられます。

『──僕が去ったらあなたはどうなさる? ……僕は信じている、あなたの崩壊を。それを信ぜずに、僕はあなたの愛を信じ得ない。あなたの「風立ちぬ」から、僕の「風立ちぬ」に何も奪い得ない…… 僕のあたらしい仕事は、出来るだけ平静で、出来るだけ美しくありたいとおもいます。今までの僕のしたすべてを、きょうは否定できます。どんな風にしても破り去り得るでしょう。』(立原,1938,p.403)

 この手紙で気になることがあり、届いた日付のことです。この堀宛の手紙が投函されたのは盛岡からで、そこでは友人の深澤紅子宛にも手紙が送られているんです。深澤紅子宛の手紙が9月28日に届いているのに対して、堀宛の手紙は帰京の前日の10月19日という旅の終りの日に届いています。

 北方への旅が記された「盛岡ノート」では日付こそ不明ですが、堀宛と深澤宛の手紙は同日に書かれたことが読み取れます。(立原道造全集4巻,p.208)立原の「堀文学への別離」はそう簡単なものではなく、悩みに悩んで彼の中で導き出されたものなのです。

 そこまで自分の世界を願っていた立原ですが、1ヶ月後の長崎へ向けての南方の旅では別離したはずの堀のもとへと帰りたいという気持ちが見られます。

 自分の同一性の輪郭がぼやけてしまい、漠然とした危機感にさらされている状態では、確かなものにのみこまれてしまいたいという願望と逆にのみこまれてしまうことが怖い、という葛藤が生まれることがある。(谷・宮下,2004,p.61)これも上記の「堀のところへ帰りたいが堀と一緒になってしまうのが怖い」という立原の心情と重なります。

 そして、青年期の青年はしばしば「特定の『指導者』との合体が自分たちを救うことができるという感情を、かなり感傷的なやり方で現すことが多い。」(Erikson,1959)と言われています。

 その指導者というのは「彼らの実験的な屈従に対する安全な対象として、お互いに親しくなおかつ正しい拒絶に向かっての第一歩を再学習するための案内役として自らを提供できる、またはしようとしている特定のおとなのことであり、その指導者に青年は徒弟となり弟子となり追随者になり性的な伴侶や患者になることを願う」(Erikson,1959)とされています。

 この「指導者と青年」の関係は「堀辰雄立原道造」の関係にとても似ていると考えられます。しかも、この関係は青年側の願いがあまりにも激しく、絶対的なものであるがゆえに失敗に終わってしまうことが多いのです。この失敗は立原の「堀文学への別離」にも読み取れるし、立原の急逝により結果失敗となってしまったともとらえられます。

 

第五節 ふたりの結核に対しての姿勢の比較

 立原の急逝の原因となった結核堀辰雄も19歳で罹患していますが、堀が立原と違ってしっかりと自分をもっていられたのは、堀の友人の神西清が言うところの『彼は言わば、病気とは仲のよい親友であった』(神西,1953,p.365)からだと考えられます

 堀は人生の半分を結核とともに過ごしたと言っていいほどで、その経験はもちろん彼の作品の中にも色濃くあらわれています。わかりやすいものでは、立原が彼を慕うきっかけになった堀の詩のひとつ『病』です。

『僕の骨にとまっている/小鳥よ 肺結核よ/おまえが嘴で突つくから/僕の痰には血がまじる/おまえが羽ばたくと/僕は咳をする/おまえを眠らせるために/僕は吸入器をかけよう(後略)』  「病」(堀辰雄文学記念館編,2004,pp.16-17)

 堀が結核をただの病気と捉えているのではないということは、前述の神西清とのエピソードでも読み取ることができます。

 第二節で記述したストレプトマイシンが日本に輸入された時、ひとつ思い切って使ってみたらどうだ、と神西が堀に勧めると『ちょっと苦笑を浮かべて、「僕から結核菌を追っ払ったら、あとに何が残るんだい?」と反論した』(神西清全集6巻,p.365)ということがありました。この後神西は、勿論冗談で言ったのであるが、彼が自分の病気というものに、どれほど深い親愛感を抱いていたかの一つの例証となるのかもしれない。と続けています。

 立原が南方への旅から帰京後江古田の療養所に入院し、堀辰雄と妻の堀多恵子が見舞いに行ったときに、立原は堀辰雄にこう言いました。『僕も堀さんのように死と遊んでいたいんだけれど、とても苦しくて……』(堀多恵子,1970)ふたりの病気の進行度はもちろん違っていますが、堀と立原の決定的な違いはここにあったと思えます。

 

第六節 『菜穂子』における都築明

 堀辰雄の作品「菜穂子」には立原道造がモデルになったとされる「都築明」という人物が登場しています。この作品では不幸な結婚生活を送る菜穂子と、菜穂子と再会した幼馴染の都築明の生への意志が対照的に描かれています。

 堀辰雄は菜穂子の構想のために「創作ノオト」を作っていて、その創作ノオトにはこんなフレーズがあります。

『▲明の Romantisme ──自己の絶望を超える。自分の求めんとするものがそこにないことを知りつつ、しかもその求めんとする気持そのものに人生至高のものを見出さんとす。』

『▲菜穂子の Romantisme ──自分の絶望を守ろうとする。それを自分に可能な唯一の人生への反抗としている。』(堀辰雄全集第7巻,p.270)

 この「明の Romantisme 」はこの後『彼の生き方は、彼の死によって、一層完成す。夭折者の運命。』(堀辰雄全集第7巻,p271-272)と続き、これは「堀辰雄が見ていた立原道造」という一面に過ぎませんが、立原の生き方と多く重なっているように見えます。

 

第七節 「どこへ……」の問い、立原にとっての青年期・青春の永遠

 立原の旅はいつも「どこへ……」という問いと共にありました。堀の作品には「死」を強く感じるのに対して、立原の詩には見られないように思います。大城はそれについて『はじめから立原には死はなかった。行きつくあては何もなかった。途中の光をだけ いつも希っていた。希望など理想など まして死の闇など彼にはなんの関心もなかった。』(大城,1973,p.69)と述べています。

 江古田の療養所で見舞客に「五月の風をゼリーにして持ってきてください」とこぼしたり、最後の南方への旅で生と光を見失いそうになっても、死の床では明日の光を立原は夢みていました。

 立原にとってアイデンティティの確立のための「自分の人生の目的・存在意義・目指す道」を「肯定的かつ確信的に回答できること」というのはそもそも問題として成立していないように思えます。昨日も今日も自分の裡にあってこそ、彼の生は成立し得ました。

 立原のアイデンティティは確立も拡散もせず彼の死によって永遠となりました。ですが、もし立原が死なずに青年期を越え青春を終わらせたとしても、彼の「どこへ……」という自己を問い続ける生き方は変わらなかっただろうと思います。その問いの答えはなんだったのか、立原自身もわからなかったものかもしれません。

参考文献

Erikson,H.E. 1959       Identity and the life cycle. New York:  International Universities Press.     小此木啓吾(編訳) 1973 自我同一性 誠信書房

 児美川孝一郎 若者とアイデンティティ 2006 法政大学出版局

 室生犀星(1939)「立原道造を哭す」,『四季』1939年7月号,p61,四季社

 岡田晴恵 感染症は世界史を動かす 2006 筑摩書房

 大城信栄 風立ちぬノート 1973 思潮社

 神西清(1953)『白い花』(神西清全集6)文治堂書店.

 杉浦明平 増補・現代日本の作家 1946 未来社

 立原道造全集全6巻本 1971-1973 角川書店

 谷 冬彦・宮下一博編 さまよえる青少年の心 2004 北大路書房

 堀多恵子 葉鶏頭―辰雄のいる随筆 1979 棗書房.

 堀辰雄(1963)『菜穂子』(堀辰雄全集第7巻)角川書店

 堀辰雄文学記念館編 堀辰雄初期作品集 2004 蔦友印刷会社.

 「18.10.21 両国祭 資料室委員会展示コーナー紹介」,<http://www.tankoukai.net/>2018年12月25日アクセス.