ニーチャンノート

まだまだ工事中 立原道造とか考察とか妄想とか

亡友反故帳(藤村→透谷の追悼文)

 島崎藤村→北村透谷への追悼の随筆です。文語体?のものを現代語訳して載せていますが、素人が訳しているものですので間違い違和感大有りだと思います。しかもまだ途中です。ここ訳していいのかなあというところは注釈つけました。ご承知の上で読んでください。(気が向いた時にぼちぼち追記します)

 原文は掲載する元気はないのでできませんが、ここはこういう訳になるのではないか、ここの原文が欲しい等などありましたらここに載せているアドレスからよろしくお願いします。

 

『亡友反故帳』 島崎藤村

 北村透谷が書き捨てた反故は、彼の書斎に積み重なっていたものから抜き集めて私の書斎のすみに保存してあったものもある。最近この反古を棚の上から取ってほこりをはたいてかれこれ読んでいくうちに、亡き友が彷彿として私の目の前にいるようで、ますます昔のことを思い出さずにはいられなくなる。

 目的もなくあちこちを旅することを好む*1面白い男として彼を知る人もいる。男気のある性質を愛し*2慈善を好む志士として彼を知る人もいる。外面を極め、世間離れ*3して自らの精神を極めた沈鬱な詩人として彼を知る人もいる。自然の研究家として生き生きとした*4批評家として彼を知る人もいる。彼はいつも私に「自分には友人が少ない、だが強いて友人を求めたりはしない」と言った。それでも彼は交遊を怠りはしなかったから、彼を知っている有名な文士も少なくはない。

 年月は流れる水のようで、逆戻りはできない。たしかに、私は旧友を再び見ることができないと思うごとに、当時の人とともにいられないことを嘆かずにはいられない。惜しくも芳蘭が夭折して二回、春と秋が来た。この世とあの世を境にして、もう一度、一緒に語ることができないとしても、北村くん、北村くん、あの世は君が生前想像していたものかい、そうなのかい? どれだけ冷たい泥土に覆われても、重い石碑を載せようとも、一点の光も通さない暗所に押し込められても、君は今はなんの痛みもなんの妨げもないのかい? 春が来たら桜の花びらが墓の上に散り、秋は植物が生い茂り露の玉を落としても、君は今はなんの情も動かされないのかい? 君はもう一度、こちらの世界に戻ってきて自分と会うことを望まないだろうか。嗚呼、北村くん、君が歩んでいる「死」とは、詩人のうたう眠りのようなものかい?もしそうなら、楽しい眠りであってほしい。

 北村くんは戯曲に志があった。彼が書き捨てた反古を見ると、戯曲になろうとしてなりきれないものがたくさん出てくる。

【以降未翻訳】

 

引用元

 島崎藤村(1966)『亡友反故帳』(島崎藤村全集1)筑摩書房

 スペシャルサンクス友人M……(とっても手伝ってくれました)

*1:飄遊を好む

*2:俠骨を愛し

*3:飄逸

*4:霊活なる

立原道造の堀辰雄宛書簡(推定8mほどのやつ)

 ひたすらパチパチ打ったものです。ぷらいべったーで公開していたものを移行しました。現代仮名遣いに直しましたが、誤字脱字あるかもしれません。あまり見ないカタカナなど外国語は脚注で意味を載せました。

 

堀辰雄宛〔盛岡発〕〈山〉

 長いことおたよりをしませんでした。

 お仕事をなさってお出でですか。

 僕はあたらしい仕事をいまからはじめようとおもいます。あたらしい仕事部屋を手に入れました。ここはしずかで僕の心にちょうどよい光があります。それにかかるまえに、あなたの今までのお仕事の意味が、僕をふかくとらえています。どんな仕方でか? 僕はむしろにくしみで! とおこたえしなければならないのです。「風立ちぬ」との対話はとうとう僕をそこへみちびきました。ここからどんな光をうばって来るかは僕にはわかりません。しかし、いまはここにいて、出来るだけ平静に、できるだけ自分の感情に耐えねばなりません。ドゥイノ悲歌*1が訳されはじめ、僕はそれをよみました。りっぱなものだとおもいます。僕はアダジオ*2をひとつ書きたいとおもいます。勿論生涯にひとつ。しかし、それが LEBENSWERK *3かどうか予定はしません。ただかぎりなく美しいアダジオをひとつ。約束や願望のむなしさが、もう僕をとらえている。それよりもただひとつわけのわからないもの。つまり太陽と光とをとらえるもの、いつも爽やかにあたらしいもの、くりかえさないではいないものだけが、ふかい信頼を要求します。

 あなたが自分のまわりに孤独をおいた日に、どんなに美しかったか。僕はそれを羨むことで、いまをきずいているといったっていいくらいです。しかし、問題はやっぱり別のところにあります。何かがはっきりと僕の耳にきかれている。それをとらえようとして僕は身をもだえている。しかもその僕の身もだえを、萎びた眼が絶えず見はっている。而もなおここでは一見孤独は容易だと錯覚されそうな境遇に居て、僕自身が、愛以外のもので奪われている。だがそれからなぜ僕はあの声を聞いたのだ? 萎えた眼が、あの恥知らずの鼻が、この深い淵につきおとさなかったら、きかなかったのではないか? おまえの孤独な願望が完成するときに、あの声がとおくからひびくと信じ得るのか? とまた何かが僕を虐めつける。……しかし、こうしてあなたに告白することで、僕はだんだんしずかになってゆきます。あなたに告白をすることで僕の心はたやすく泪をながしはじめます。この泪を軽蔑する者に何があるのかといいたい意地っ張りといっしょになって、もっともっと泪をながす。だがこんなに僕の心にぎりぎりと苦い泪を──はじめて僕はこんな屈辱に出会ったとおもうほどに、いま僕は怒りとかなしみに灼けています。しかし、にくしみだけが、なぜか湧いてこない。それだけが今の僕に欠けている。もっともっとこれが大切なのだ。これがないから僕はくずれてゆくのだ。しかし、にくしみだけが欠けているこの深い淵には底はなかったのだろうか。ここが底なのだろうか──

 こんな気持ちにいて、あたらしい仕事ははじめられません。しかもはじめようとおもいます。こんなときに、あなたをかんがえずにいられないのはなぜだろう、とおもいます。

 たいへんに空気がうすい、呼吸が苦しいような気分です。肉体の問題です。精神のアレゴリー*4をいまはおそらく言えないでしょう。もっと汚い仕方では、脈絡のない仕方でか、精神をいう言葉は死んでしまった。ただ、僕の肉体が、青い翼の疲れきった鳥のように、この机に向っているのでしょう。ゆうべはその肉体が信じられていた。そして、ゆうべはたしかに、にくしみを光にまで変容出来た──あたらしい仕事ということは、一層イロニー*5のようです。やはり別離のことですから。僕はいつも別離をだけ体験し、廃墟をだけ所有してきた。こんな生き方ではないものを北の国できづきはじめた。そしてきづき得たと信じていたのです。孤独でなければそれは保ち得なかったのか、それともそれはまた十分に出来てはいなかったのか……たった一つきでみじめに潰えてしまった! そしてまた別離を、廃墟を、こんなによわよわしくかんがえはじめています。

 あなたにも、僕にも、共通の不完全と醜がある。しかしそこから脱け出そうとしていることは正しい。しかし、この不完全と醜とだけでそれにささえられて生きている者がいたら、あなたはどうなさるか? あなたはイロニカルな愛し方をすることが出来る。そしてかつて僕はそのイロニーをまなび得る。あるいはまなぶことに、愛を信じ得た。しかし、はっきりといまは僕はそのイロニーに耐えない。こちらよりもむこうが残酷に強いとき僕の愛が真実でなければ、自分のイロニー自体が僕を苦しめる。さらに相手はもっと強い拷問だ……僕のあわただしい崩壊がどこにあるか──僕は幾日も幾日もたたかいつづけた。しかしとうとう敗けたのだ、と告白します。

 あなたがいまいなかったら、僕はもっと残酷であり得たかも知れない。しかし、そんなことは僕のぬけ穴でしょう。

 僕の仕事が無意味だとはもうおもわれません。こんなところから生きはじめるために、それがなかったら出来ないでしょう。こんな仕事のはじめ方は、あなたにもお別れをつげねばならない日かも知れない。しかし、僕は、あなたの愛を信じている。それがこんな告白を僕にゆるす。あなたから去って、僕はどこへ行くのだろう? だが、もし去らねばならないときは去る。失わなければならないなら、世界をさえ失う。ここでながす泪の重さをはかろうというあわれな僕の知恵よ、何よりもおまえはくびられねばならない。知恵というよりもあわれな僕の知識よ、しかしおまえはひょっとしたら僕をここで殺してしまうのかも知れない。僕は今までこの世が僕になすままをなすところなくうけいれて来た。忍耐もせずに──僕が去ったらあなたはどうなさる? ……僕は信じている、あなたの崩壊を。それを信ぜずに、僕はあなたの愛を信じ得ない。あなたの「風立ちぬ」から、僕の「風立ちぬ」に何も奪い得ない……

 僕のあたらしい仕事は、出来るだけ平静で、出来るだけ美しくありたいとおもいます。今までの僕のしたすべてを、きょうは否定できます。どんな風にしても破り去り得るでしょう。今が含んでいる明日を、明日書きあげられる美しい仕事を、しかし約束と願望の仕方ではなく、信じます。あなたを信じるように、今、僕からとおく仕事をなさっているあなたを信じるように、自分を信じます。

 ここ幾日かの僕のたたかいの一切をかくして、今日の敗北だけで、あなたに明日のことを告白しました。そして僕はここでペンをおいて(いつペンをおけるのかわからない。おそらく暴力なしには永遠にこのおもいはペンをはなさないでしょう)しばらく、濃い空気を吸いたいとおもいます。僕の呼吸がらくになるように。 ここ幾日かの僕のたたかいの一切をかくして、今日の敗北だけで、あなたに明日のことを告白しました。そして僕はここでペンをおいて(いつペンをおけるのかわからない。おそらく暴力なしには永遠にこのおもいはペンをはなさないでしょう)しばらく、濃い空気を吸いたいとおもいます。僕の呼吸がらくになるように。 死なない方がいいとだけは、このごろ、しみじみおもっています。では、さようなら。

 お身をお大切に。 道造 

 堀辰雄様 

P.S. 一日、むなしくこの仕事部屋に座っていました。夕陽があかあかとさしています。北の窓に紫色のシルエットになった岩手山が美しく見えます。きょう一日はしずかな孤独がようやく得られた。なんの僕を苦しめるものもなく、ここで、僕のなかに成長してくる言葉といっしょにくらすことが出来た──このことを書かずに、今朝の手紙だけをお送りせずにいてよかったとおもいます。封筒にいれたまま、ここの机でぼんやりそれを僕がながめていたのです。

 自分自身のなかに沈んでゆけば自分を形成してゆくことは可能だが、その形成された自分があんなに早く崩れてしまうのはなぜでしょう? ゆうべも僕は、とうとう光を奪い得た、と確信しました。夜の澄んだ光のなかで、僕のアダジオは僕に近く訪れたとおもいました。それが、今朝はふたたびあんなみじめな結果です。こうしてひとりでいれば、僕はわずらわされず愛することが出来るのは、ずっと前にこうならなかったころのことを追憶しているからなのでしょう。しかし、僕はもっと優しくもっと強くなくてはならない。そして、いつもどんな危機にでも自分を確かにまもって行かなくてはならないと、いましめられます。そして、人をにくんだり人をへだてたりしないことでそれを日常のうちになしとげなければ、とおもいます。「苦しみの独創性を尊重したから苦しんだ」というあの苦しみも、僕は尊敬出来るけれど僕にとっては、苦しみや闇を通って、美しい人間になるためよりか苦しみをかんがえられません。そして美しい人間になるには、苦しみがなくてはならないかさえも信用していません。あるがままで美しい人間。ゲーテの GANZ MENSCH *6や、ニーチェの ÜBERMENSCH *7が、あこがれられます。夕雨のなかに町にいま灯がつきました。ここからとおくけむったあたりに橋がかかっていて、その上をくろい小さな人たちが行きます。その向うにはシルエットになった杉の森ととおくもっと淡く低い山と、それから夕やけの空があります。この一枚の風景画が、今、僕のなかで生きながら、こんなに活き活きと語るものと、あのあこがれと、どちらが僕の心を奪ったのだろう。そして、そのどちらをもひとつにするところに僕はいるのではなかろうか。つまり僕がひとつの黒い橋ではなかろうか。とかんがえます。だんだん灰色にかわってゆく夕やけ雲の下を鴉が啼きながらすぎます。

 僕の今度の仕事は、僕の生活で、何かしら大切なものになりそうです。しかしおそれてはいません。

 あのひとつの別離のあと、日々はしずかにながれました。そして、僕ののぞんだ仕事はちいさいちいさい形を、それも一部分のこしたまま、どこかへすぎてしまったのです。

 きょうはじつによい天気で、世界は完全でした。青い空の色に金色の光が美しく調和して、地の上の多様な風景は、飾りのように僕らのまわりをとりまいていました。晩秋の一日にこんな秘密がかくれていたとおもうような、昨日あたりまでのあまりに寒い意地わるい気候にくらべて、あたたかい親切な日よりでした。夕ぐれ、僕は汽車にのります。一月のあいだとどまったこの町に別れを告げるときなのです。四時すぎて、もうその汽車に二時間しかないとき、いつもいつも僕の愛したこの夕映えの時刻に、ここでのいちばんおしまいの手紙を書いています。この旅の朝、僕はやはりひとつの手紙をさしあげた。それが山荘にとどいたときのことを、あの少年がおしえて行った……しかし、いまはあの朝とどれだけちがうのか、自分にはわかりません。それでも自分のなかに、何か大切なものをひとつ植えつけた。それを育てるのはむずかしいどんなことか知らないが、何かしらひょっとしたら手に入らないと、あきらめていた何かを、植えつけたような気がしています。

 ここで僕はたしかにひとつのものを失った。そのことについてはいま何もかんがえずにこんなにみちたりたまなざしを風景に投げかけます。そして、だまって別れてゆこうとおもいます。夜汽車の寝室が、東京へ明日の朝は早く連れて行ってしまうでしょう。おそろしいような気もする。そんなにこの一月、完全に僕は、東京からも、自分からも、不在でした。あたらしい意味での帰郷者、あるいは追放者です。いまのざわめいているこの心情は──

 何か出来るか出来ないか、そんなことを問題にしながら、この町に別を告げています。この町は僕にいいことをした。それへの感謝のしるしはいまの僕にはだめです。しかし、いつかは何か、それさえわからない心持で別れを告げます。それでいいのでしょう。それがいいのだろうとさえおもいます。すこしさびしいけれど。……はじめて僕の生でめぐりあった北! 北の明るい祝祭の季節!

 もうペンをおいて、うしろの丘に行って最後の一べつを投げて来ようとおもいます。

 では、また近いうちに東京でお会い出来る日を待ちながら。僕は、これから東京へかえります。

立原道造全集 第5巻 角川書店 書簡番号559より

*1:おそらくリルケの連作詩、ドゥイノの悲歌

*2:アダージョ。音楽の速度標語、ゆるやかに演奏せよの意。

*3: (独)ライフワーク。

*4:(英: Allegory)寓意。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つそうです。

*5:(英:irony)皮肉。英語じゃなくてドイツ語・フランス語かもしれない。

*6:ゲーテの作品・言葉だろうか?出てこなかった。直訳で「完全な人間」

*7:超人。ニーチェが提唱した概念の一つ。

立原道造のアイデンティティ 堀辰雄との親密性の問題について

 別件で大学に出したものをすこし改変しました。

 立原道造のこととか、アイデンティティとか大体わかってるよ。という人は下記リンクから「第四節 アイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題」まで飛んでください。その節が本番なので……
 第三、五~七節はおまけ?みたいなものです、たのしく書きましたのでお暇でしたら読んでください。おまけでもないかな……

第一節 立原道造って?

 立原道造は1914年7月30日生まれ、第一高等学校在学中に堀辰雄に師事し、詩作を学びました。一高卒業後は東京帝国大学工学部建築学科に進み、建築家としても知られています。代表作は『萱草わすれぐさに寄す』『暁と夕の詩』。音楽性の高い詩で、合唱曲として今でも歌われることが多いです。合唱部が強い学校だった人とかは聞いたことあるんじゃないのかなあ……

 しかし1937年10月、立原23歳の頃に結核菌が原因とされる肋膜炎を発症しました。一時は回復しましたが不調が続き、翌年の夏に医師には肺尖カタル(肺結核の初期)と診断されました。その年の12月に旅先の長崎で激しく喀血、下旬に帰京後江古田の療養所に入院。その頃には咽頭から腸まで結核菌に冒されていて、翌年1939年3月29日に24歳8ヶ月の若さで亡くなりました。

 立原は第一次世界大戦が勃発した年に生まれ、背後には常に戦争の色が強くありましたが、立原の詩にはその色は見られません。そして第二次世界大戦が始まる半年前に急逝しました。友達の杉浦明平は「彼はいいときに育ちいいときに死んだ。彼の最後の半年くらい奇妙な政治的見解を口にするようになっていたから、もし生きていたら彼の生に大きな汚点を残したかもしれない。神々は彼をその恥辱から救ったのである」(杉浦,1948,p.340)と言っています。そんな青年期の半ばにこの世を去った立原のアイデンティティについて述べていきます。

 

第二節 立原とアイデンティティ

 アイデンティティとは、エリクソンの人格発達理論における青年期の心理社会的危機を示す用語です。ちょっとややこしいんですがエリクソンという人が考えた発達段階のなかの青年期に起こる自分対社会(外界、他者など)の様々な葛藤などのことだとなんとなく認識していれば大丈夫だと思います。自我同一性ともいい、「昨日の自分も今日の自分も変わらない」「自分は一貫して自分のままだ」というものも含まれます。

 青年期とは中学から大学くらいまでの長い時期のことを示します。また、児美川はアイデンティティにかかわる重要な含意として「自分自身が『私はずっと私であるし、これからもそうである』『私はずっとこういう人間である』と感じるような意識の作用」と述べています。(児美川,2006 p.2)

 立原は、アイデンティティの確立の時期を永遠にしてしまった人だと私は考えています。それは青年期の真っ只中に急逝したからという理由もありますが、その確立のために重要になってくる『「自分は何者か」「自分の目指す道とは何か」「自分の人生の目標とは何か」「自分の存在意義とは何か」など、自分を社会の中に位置付ける問いかけに対して肯定的かつ確信的に回答できること』という要素にも理由づけられます。

 初めに述べたように、立原は22歳で結核を発症しました。明治以降の産業革命による都市部への人口集中で「国民病」といわれていた結核は、1944年にストレプトマイシンという抗生物質が開発されるまで有効な治療法はなく、(岡田,2006,p.165)彼が生きていた当時の治療法とは、栄養を取って安静にすること、空気の綺麗なところへ転地療養することが最善でした。サナトリウムですね 

 現代日本の青年でも自分の未来への問いかけの答えは難しいものであるのに、不治の病といわれる病気にかかって、自分の未来に対して肯定的かつ確信的に回答する、ということは困難なものではないだろうかと思います。実際彼が亡くなる3ヶ月前の南方への旅の日記「長崎ノート」にはこのようなことが記されています。

『夕ぐれ、汽車のなか、窓に月がかかっている。(中略)いろいろな人が家へ帰ったりする時刻だった──僕にはそれはうらやましく、さびしかった。あの人たちには生活がある、しかし僕にはない。』(立原,1938,p.318)

『観念的な夢想と、希望とが、自分の肉体の限界で破れてしまってこのかた、僕は光を失っている。』(立原,1938,p.351)

 ですが「長崎ノート」は帰京後の記録も書かれていて、『僕はおとなしくして早く健康になろう。それよりほかには何もない。(中略)ただまなざしを出来るだけ明るい未来に向ける。』(立原,1938,p.368)という明るめの言葉で締め括られており、否定と肯定との両極で揺れる青年期らしい感情が読み取れます。

 

第三節 堀辰雄という人

 ここで立原の先生、堀辰雄についてすこし触れます。堀は立原と同じ下町出身で、三中、一高、東京帝大に進学と育ってきた環境も似ています。ふたりが実際に面識を得たのは堀が27歳、立原が18歳の頃で、堀に出会うまでは短歌が主だった立原が詩に転向したのはこの出会いからでした。

 立原は「堀辰雄詩集」という手製の詩集をつくるほどに堀に傾倒しており、立原の詩の温床でもある軽井沢を教えたのも堀辰雄でした。堀と初めて会った1931年から2人の交流は濃くなり、室生犀星に『堀君が兄貴で立原君が弟のように思えて二人を引き外らして考えることが困難なくらいであった。』(室生,1939,p.61)と言われるほどの仲でした。師弟でもあり兄弟でもあり文学的な「親と子」のような関係で、立原はあたたかく優しい堀文学の中で詩を育てていきました。

 しかし、1938年の秋、盛岡へ旅立っていた立原は堀に対して巻紙推定8メートルにも及ぶ “堀文学に対する別離” の手紙を送ります。すでに昭和13年4月には「風立ちぬ論」という評論のなかで激しい決別の情を綴り始めているので、立原の中で突然おこったものではないとみられます。

 この決別は立原の「恋人ととおく離れてそれに身を震わせつつ耐える愛」というものが、堀の「風立ちぬ」の中の「静かに寄り添って生まれる愛」を許せなかったということでも考えられますが、ここではアイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題において彼の決別を考えます。やっと本題です!!

 

第四節 アイデンティティ拡散の臨床像、親密性の問題

 エリクソンの漸性発達図式では青年期に次ぐ成人期初期の心理社会的危機として「親密性 対 孤立」が挙げられています。

 他人と本物の親密な関係を結ぶことは、しっかりとした自己確立の結果であり、また試練でもあります。その自己確立の感覚が十分でない段階での友情・競争・性的関係は『際限のないおしゃべり、自分がどう感じるか、他人がどのようにみえるかを告白したり計画や願望や期待を話し合うことによって、自分自身のアイデンティティの定義を得ようとする試みに専念するような関係』(谷・宮下,2004,pp.60-61)というもので、他人からの評価を受けて自分のアイデンティティを確立させていくという関係です。

 ですが、そのような関係は自身のアイデンティティの喪失につながる対人的融合への不安を引き起こす原因にもなるのです。

 この「対人的融合への不安」は立原の「堀文学への決別」と重なります立原は堀を通じて詩人としての自分を作っていきました。「親と子」ではなく「個と個」になるため、堀世界から脱却して今までの自分を否定し、自らの文学を作っていこうとする激しい感情が堀宛の手紙にみられます。

『──僕が去ったらあなたはどうなさる? ……僕は信じている、あなたの崩壊を。それを信ぜずに、僕はあなたの愛を信じ得ない。あなたの「風立ちぬ」から、僕の「風立ちぬ」に何も奪い得ない…… 僕のあたらしい仕事は、出来るだけ平静で、出来るだけ美しくありたいとおもいます。今までの僕のしたすべてを、きょうは否定できます。どんな風にしても破り去り得るでしょう。』(立原,1938,p.403)

 この手紙で気になることがあり、届いた日付のことです。この堀宛の手紙が投函されたのは盛岡からで、そこでは友人の深澤紅子宛にも手紙が送られているんです。深澤紅子宛の手紙が9月28日に届いているのに対して、堀宛の手紙は帰京の前日の10月19日という旅の終りの日に届いています。

 北方への旅が記された「盛岡ノート」では日付こそ不明ですが、堀宛と深澤宛の手紙は同日に書かれたことが読み取れます。(立原道造全集4巻,p.208)立原の「堀文学への別離」はそう簡単なものではなく、悩みに悩んで彼の中で導き出されたものなのです。

 そこまで自分の世界を願っていた立原ですが、1ヶ月後の長崎へ向けての南方の旅では別離したはずの堀のもとへと帰りたいという気持ちが見られます。

 自分の同一性の輪郭がぼやけてしまい、漠然とした危機感にさらされている状態では、確かなものにのみこまれてしまいたいという願望と逆にのみこまれてしまうことが怖い、という葛藤が生まれることがある。(谷・宮下,2004,p.61)これも上記の「堀のところへ帰りたいが堀と一緒になってしまうのが怖い」という立原の心情と重なります。

 そして、青年期の青年はしばしば「特定の『指導者』との合体が自分たちを救うことができるという感情を、かなり感傷的なやり方で現すことが多い。」(Erikson,1959)と言われています。

 その指導者というのは「彼らの実験的な屈従に対する安全な対象として、お互いに親しくなおかつ正しい拒絶に向かっての第一歩を再学習するための案内役として自らを提供できる、またはしようとしている特定のおとなのことであり、その指導者に青年は徒弟となり弟子となり追随者になり性的な伴侶や患者になることを願う」(Erikson,1959)とされています。

 この「指導者と青年」の関係は「堀辰雄立原道造」の関係にとても似ていると考えられます。しかも、この関係は青年側の願いがあまりにも激しく、絶対的なものであるがゆえに失敗に終わってしまうことが多いのです。この失敗は立原の「堀文学への別離」にも読み取れるし、立原の急逝により結果失敗となってしまったともとらえられます。

 

第五節 ふたりの結核に対しての姿勢の比較

 立原の急逝の原因となった結核堀辰雄も19歳で罹患していますが、堀が立原と違ってしっかりと自分をもっていられたのは、堀の友人の神西清が言うところの『彼は言わば、病気とは仲のよい親友であった』(神西,1953,p.365)からだと考えられます

 堀は人生の半分を結核とともに過ごしたと言っていいほどで、その経験はもちろん彼の作品の中にも色濃くあらわれています。わかりやすいものでは、立原が彼を慕うきっかけになった堀の詩のひとつ『病』です。

『僕の骨にとまっている/小鳥よ 肺結核よ/おまえが嘴で突つくから/僕の痰には血がまじる/おまえが羽ばたくと/僕は咳をする/おまえを眠らせるために/僕は吸入器をかけよう(後略)』  「病」(堀辰雄文学記念館編,2004,pp.16-17)

 堀が結核をただの病気と捉えているのではないということは、前述の神西清とのエピソードでも読み取ることができます。

 第二節で記述したストレプトマイシンが日本に輸入された時、ひとつ思い切って使ってみたらどうだ、と神西が堀に勧めると『ちょっと苦笑を浮かべて、「僕から結核菌を追っ払ったら、あとに何が残るんだい?」と反論した』(神西清全集6巻,p.365)ということがありました。この後神西は、勿論冗談で言ったのであるが、彼が自分の病気というものに、どれほど深い親愛感を抱いていたかの一つの例証となるのかもしれない。と続けています。

 立原が南方への旅から帰京後江古田の療養所に入院し、堀辰雄と妻の堀多恵子が見舞いに行ったときに、立原は堀辰雄にこう言いました。『僕も堀さんのように死と遊んでいたいんだけれど、とても苦しくて……』(堀多恵子,1970)ふたりの病気の進行度はもちろん違っていますが、堀と立原の決定的な違いはここにあったと思えます。

 

第六節 『菜穂子』における都築明

 堀辰雄の作品「菜穂子」には立原道造がモデルになったとされる「都築明」という人物が登場しています。この作品では不幸な結婚生活を送る菜穂子と、菜穂子と再会した幼馴染の都築明の生への意志が対照的に描かれています。

 堀辰雄は菜穂子の構想のために「創作ノオト」を作っていて、その創作ノオトにはこんなフレーズがあります。

『▲明の Romantisme ──自己の絶望を超える。自分の求めんとするものがそこにないことを知りつつ、しかもその求めんとする気持そのものに人生至高のものを見出さんとす。』

『▲菜穂子の Romantisme ──自分の絶望を守ろうとする。それを自分に可能な唯一の人生への反抗としている。』(堀辰雄全集第7巻,p.270)

 この「明の Romantisme 」はこの後『彼の生き方は、彼の死によって、一層完成す。夭折者の運命。』(堀辰雄全集第7巻,p271-272)と続き、これは「堀辰雄が見ていた立原道造」という一面に過ぎませんが、立原の生き方と多く重なっているように見えます。

 

第七節 「どこへ……」の問い、立原にとっての青年期・青春の永遠

 立原の旅はいつも「どこへ……」という問いと共にありました。堀の作品には「死」を強く感じるのに対して、立原の詩には見られないように思います。大城はそれについて『はじめから立原には死はなかった。行きつくあては何もなかった。途中の光をだけ いつも希っていた。希望など理想など まして死の闇など彼にはなんの関心もなかった。』(大城,1973,p.69)と述べています。

 江古田の療養所で見舞客に「五月の風をゼリーにして持ってきてください」とこぼしたり、最後の南方への旅で生と光を見失いそうになっても、死の床では明日の光を立原は夢みていました。

 立原にとってアイデンティティの確立のための「自分の人生の目的・存在意義・目指す道」を「肯定的かつ確信的に回答できること」というのはそもそも問題として成立していないように思えます。昨日も今日も自分の裡にあってこそ、彼の生は成立し得ました。

 立原のアイデンティティは確立も拡散もせず彼の死によって永遠となりました。ですが、もし立原が死なずに青年期を越え青春を終わらせたとしても、彼の「どこへ……」という自己を問い続ける生き方は変わらなかっただろうと思います。その問いの答えはなんだったのか、立原自身もわからなかったものかもしれません。

参考文献

Erikson,H.E. 1959       Identity and the life cycle. New York:  International Universities Press.     小此木啓吾(編訳) 1973 自我同一性 誠信書房

 児美川孝一郎 若者とアイデンティティ 2006 法政大学出版局

 室生犀星(1939)「立原道造を哭す」,『四季』1939年7月号,p61,四季社

 岡田晴恵 感染症は世界史を動かす 2006 筑摩書房

 大城信栄 風立ちぬノート 1973 思潮社

 神西清(1953)『白い花』(神西清全集6)文治堂書店.

 杉浦明平 増補・現代日本の作家 1946 未来社

 立原道造全集全6巻本 1971-1973 角川書店

 谷 冬彦・宮下一博編 さまよえる青少年の心 2004 北大路書房

 堀多恵子 葉鶏頭―辰雄のいる随筆 1979 棗書房.

 堀辰雄(1963)『菜穂子』(堀辰雄全集第7巻)角川書店

 堀辰雄文学記念館編 堀辰雄初期作品集 2004 蔦友印刷会社.

 「18.10.21 両国祭 資料室委員会展示コーナー紹介」,<http://www.tankoukai.net/>2018年12月25日アクセス.

 

 

透谷と藤村関連本メモ

大学一年の夏休みに借りたもののちゃんと読めなかった透谷と藤村関連本メモ

 

北村透谷論 ─ 天空への渇望 黒古一夫 冬樹社

透谷詩考 橋詰静子 新栄堂

透谷・藤村・一葉 藪禎子 明治書院

島崎藤村 ─小説の方法─ 滝藤萬義 明治書院 p.117 p.125(みよしくんのこと)

北村透谷 小沢勝美 頸草書房

透谷ノート 吉増剛造 p.36 p.120 p.128?

🌷北村透谷 色川大吉 理想社 p.220 p.295

北村透谷 槇林滉二編 国書刊行会 p.283 p.276(透谷と藤村)

 

どうも出てこないよなあ 小田原文学館はすごかった……

堀多恵子『堀辰雄の周辺』角川書店 平成8年

 堀辰雄の奥さん、堀多恵子が書いた辰雄とのエピソード、辰雄と関係のある文士たちとのエピソードが入っている随筆集。地元の市立図書館から借りた。

  下記は注釈がない限り多恵子さんから見た立原道造

 

 幼少期剣舞を習う。家業を継ぐより望む資質にふさわしいとして好きな道を選ぶことを許されていた。

 甘い物が大好きで特に羊羹が好き。
「朝起きるとすぐ食べたがり、好きなようにさせていたので体の弱い子になってしまったのでしょうか。」と登免さんが話していたという。
 (好きなようにってことはほんとに起床即羊羹してたんだろうか……)


 多恵子さんと辰雄が結婚する前、鎌倉で倒れた辰雄のことを知らせるために杉並の多恵子さんのおうちに行ったそう。
いたずらっぽい明るい人、よくしゃべって冗談もいう。という印象。

 「自分の理想とする家は、朝は洋館でそこには長いスカートをはいた美しい奥さんがいて、夕方戻ってきてボタンを押すと、その家はバタンバタンと日本家屋に変わり、和服を着た優雅なひとが迎えに出て来る」みたいなことを電車の中で多恵子さんに話してたらしい。

 『立原さんをはぐくんだ信濃追分は、辰雄によって与えられた土地であったのだろう。』

 室生犀星津村信夫が江古田の療養所に入院していた立原を見舞って、病が重いことを知らせたのは2月に入ってからだという。
 『我が愛する詩人の伝記』の手のはなしと時系列同じだと思う。

 

 ドイツスミレを横浜の花屋で買って、ケーキを持って行った。立原、髪を切って坊主頭になっていた。
 面会の時間が残り少なく、階段を駆け上っていったみたい。
 「僕も堀さんのように病気をたのしむようにしていたいんだが、とても苦しくて……」と立原は辰雄に言ったが、小さくかすかで辰雄にしか届かなかった。

 上記の江古田での出来事は『葉鶏頭 辰雄のいる随筆』(昭和45年)でも語られており、いくつか表記ゆれが見られる。